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作:Ξキソケさん「~これからずっと、いっしょに~ 前編」

~これからずっと、いっしょに~
※原作の6巻を読んでいるとよりお楽しみいただけます。


僕は一階にあるキッチンでコーヒーの準備をしながら、たぶん、僕の部屋の中には西日が差し込んでいることだろう、と考えていた。
普段ならそんなことは気にしないが、ちょっと気にしてしまう事情がある。
……なぜなら、里香が嬉しいことに僕の家に遊びに来ているからだ。もちろん、何かへんなことをしてたわけじゃないぞ。
それで、里香は今は何処で何をしているのかというと、二階の僕の部屋で本を読んでいるだろう。さっきまでは二人でまったりと過ごしていたのだが、里香が不意に
『裕一、わたし喉乾いてきちゃったんだけど、何か飲み物無いかな?
 あ、コーヒーでいいからね。 頼んだよ!』

と、要求してきたものだから、僕は階下にあるキッチンにコーヒーの準備をしに向かったのだ。それはもう、僕は里香の言うことには逆らえないので唯々諾々と。僕も確かに喉が乾いていた頃だったし。しかし、コーヒーの準備をするにしても、それが里香と一緒に飲むものだからか必要以上に作業に時間をかけてしまっている。司ならもっと手早く、しかも美味しくなるようにやってしまうのだろうけれど。
母親に頼むとしても仕事で今日遅くまで不在なので、こういうことは自分がするしかないのだった。
『裕一、もしも里香ちゃんが来たら優しくしてあげるのよ』とも言っていたような気がする。まぁ……そのおかげで僕の部屋で里香と二人っきりの幸せな時間を、思う存分に満喫出来るのだから何の文句もなかった。幸せだから、この程度の苦労は苦労じゃないのさ。
(ん……、やっと出来たかな)
とりあえず、出来たてのコーヒーが入ったポットと二つのカップをトレーに載せた。僕の家には可愛かったり華やかだったりする食器はほとんど置いていなくて実用性重視の素っ気ないものばかりなのは知っていたけれど、里香に何か出す時には、その中からでも出来るだけマシなものを探して使うことにしていた。里香が可愛らしいものに向かってあからさまに『好き』と言うことはないけれど、
やはり僕としては適当に選んだ食器を使わせるわけにはいかないのだ。僕はトレーをしっかりと落ちないように持ち、二階への階段を上がっていく。里香は、このコーヒーを美味しいって言ってくれるかな?そして、僕は里香が待っているであろう部屋の扉を開ける。
少しの間離れていただけなのに、どうしてこんなに嬉しくなるんだろう―――

……少年が一人でコーヒーを煎れに下に行ってしまって、部屋に一人で残された形の少女は少し寂しく感じていた。
楽しい日常の時間の合間にある、独りで残されたような感覚に少女は浸っていた。急に感傷的になってしまった。と言って差し支えないないだろう。少女はこともなげに少年の普段使っているベッドに倒れ込み、枕にしっかりと染みついている少年の体臭を顔を埋めて嗅いだ。
なぜか安心の出来る匂いの中で、少女はそっと目を閉じて考える。……いつもいつも自分のことを一番に考えてくれる大切なひと。
自分と共に生きることによって開かれた未来を奪われた大切なひと。どんなにぞんざいに扱っても、どんなにわがままを言っても、自分に愛想をつかすことはない。そして何より自分は、彼にたくさん残されていた未来の可能性を奪ってしまったのだ。
年頃の男の子なんだから、本来は伊勢に籠もっていたくはないはずだ。世古口君だって東京に行きたいそうだ。
でも、彼にはそんな選択肢はない。私が潰してしまったから―――。
こんなに迷惑をかけている私が、彼にもっと何かしてやれないだろうか?もっともっと、彼と一緒に楽しく笑っているにはどうしたらいいのだろう……?安心出来る彼の匂いの中で、小さく憂いを含んだ少女の意識は少しずつ、緩やかな春の小川に流されていくようにまどろんでいった……。

―――ドアを開けると、夏服の長袖の制服を着たままの里香が眠っていた。僕のベッドの上で。他人の部屋で勝手に寝るのはどうかと思うけれども、そんなことを気にさせないくらいの光景が僕の目の前に広がっていた。里香は身体に布団や毛布をかけることはしていなくて、
身体を少し丸めてすやすやと眠っている。長袖から出ている小さくて白い手が、妙に綺麗に見える。里香が眠っているだけで、僕の部屋は優しく暖かい雰囲気に満たされているのがわかった。頬の辺りに朱い反射が移り、その柔らかなラインをさらに柔らかく浮かび上がらせている。何度かキスしたことはあったけれど、里香の頬はこんなにふにふにしてそうだったかな……?
(ん……それよりコーヒーを……)
思わず里香の寝姿に見とれて顔が熱くなってしまっていた。しかし、暖かいコーヒーは里香と一緒に早く飲まないと、手に持っているトレーの上で容赦なく冷めてしまうだろう。僕は仕方なく、里香を起こそうと考えてみて…………結局、起こせなかった。
(もったいないよなあ……)
里香がこんなにも可愛い顔をして寝ているのに、それをコーヒーが冷めてしまうからいってむげに起こす気にはなれなかった。里香と一緒に飲むはずだったのに、冷めてしまうのは残念だ。まぁ、自分で頼んでおいて他人のベッドで寝てしまうの里香が悪いとは思うが。
僕はそれからまじまじと、立ったままで里香の制服での寝姿を見てしまう。穏やかな呼吸の度に里香の身体は、うなじもお腹も微かに上下に揺れ、少し高い鼻からはすうすうという可愛い寝息が漏れ聞こえている。それらの一連の営みが孕んでいるあまりの優しさに安らかさに、僕の思考は少し遠くまで流されてしまっていた。
……里香は、ずっと命の瀬戸際で生きてきたんだ。小さな頃から、いつも隣にいる死神の影に怯えながら、それでも懸命に生きてきたんだ。人並みじゃない人生を送ってきた里香が、今は僕の部屋ですやすやと眠っている。そして、これからは僕と一緒にずっとずっと生きていってくれるんだ……
そんなことを考えていたら、自然と僕の心が暖かいモノに濡らされていくのを感じる。もう、何もいらない。里香の他には何もいらないと思わせてくれる気持ちになった。
…………しかし、里香が僕のベッドで無防備に寝ているというひどく嬉しくて珍しい事態は、
そうそう無いことにも気付いてしまった。仕方ない、僕くらいの歳の男なんて不純の塊みたいなもんなんだから。途端に神聖な気分が薄まって顔がカアッと熱くなり、何かが腹の奥でドロッと蠢きもした。……ああくそ、可愛いな。こんなにも、里香が何も考えてないような顔してるなんて……。そもそも、今のこの家には僕と二人っきりなのに無防備過ぎだろう。万が一、僕に襲われでもしたらどうするんだ。
待てよ? 狸寝入りだったらどうしよう? むしろ、その確率は里香の性格から言えば高い。
もしそうだったら、また里香にいじられちゃうじゃないか! さしずめ、『あー―…… 今、裕一、私にヘンなことしようとしてたでしょ!?』という感じだろう。それよりも確実なのは、里香が帰ったら速攻でベッドの匂いを嗅ぎながら……(だ、駄目だダメだ!)
僕は、股間の辺りにねっとりとまとわりついてくる邪念をなんとか振り払うと、普段僕が使っている勉強机の上にソーサーをとりあえず置き、ベッドの端にそっと腰掛ける。すぐ目の前に、里香の小さめで丸みを帯びていて細い身体があった。
彼女は身体を横にし、膝を軽く曲げている。制服のスカートの裾からは、無駄なものが付いていない形のいい二本の足がすらりと伸びていた。僕は、それらを自分の手で上下に撫ででみたいという邪念をかき立てられしまいそうなので、何か気を紛らわせるものが無いか軽く探してみた。すると、身体を丸めた里香が両手で軽く本を抱え込んでいるのを見つけた。(これって……?)芥川龍之介の、『蜜柑』が入っている短編集だった。せっかくの里香の眠りを妨げないように細心の注意を払いながら、
里香の白い手からその本を自分の手に取る。そして、里香のすうすうという寝息をBGM代わりに聞きながら、
僕は再びその本に入っている短い話を読み進める。一つ一つの文章をかみしめるように、頭の中で覚えている内容をなぞるように読み進めていく。
……目の前でそれはそれは気持ちよさそうに寝ている誰かさんに、僕は半ば強制的に色々と本を読まされる影響からか、最近は割と集中して本を読めるようになっていた。おかげで、僕はさっきまでの邪念を払って本を読み切ることができた。うん、悪くない。
どうってことない話なのに、それでも暖かい何かが心に残った。里香がこの本を気に入るのもわかる気がした。そう思いながら本を閉じると、西日はさらに傾き、部屋は薄暗くなっていた。里香の柔らかいシルエットが、うっすらと朱く輝く窓を背景に浮かび上がる。
そして僕は、気持ちよさそうに眠っている里香の顔を見る。その顔はやっぱり何も考えていない、無垢な天使のような寝顔だった。不意に僕の心から、里香に対する想いが溢れ出しそうになる。
(………里香)
僕は彼女を起こし、強く抱きしめたかった。この場で彼女を僕のものにしたかった。僕と里香の心と身体を何も纏わぬ丸裸にして、もう離れられないくらいに一つに繋がって気持ちよくなりたい。そして、いつまでもいつまでも、ベッドの上で愛し合ってじゃれあっていたい。
…………けれど、それはまだ先でいいと思う。もう少し先でもいいと思う。彼女のほっそりとした身体や儚さを、僕はまだまだ大切にしたかった。僕と里香が大人になるその時がすぐに来てしまうとしても、少なくとも、ちゃんと里香と心を通い合わせてからにしたい。
そうさ、僕と里香にはたくさんの時間が残されているんだ。永遠ではないかもしれないけれど、僕はその長さを信じる。少しでもそれが長く続くことを願う。たったひとつのもの。世界で一番大事な存在。僕はそれを手に入れた幸福とともに、いくつかのものを投げ捨てることにした。投げ捨てられたものの一つ、まずは東京のことを思い浮かべ始める。
空の西日の朱に、少しずつ夕闇の黒が混じりはじめていた―――

――――そして三十分後。
陽はどんどん傾いていき、世界を覆う権利をほとんど暗闇に渡していた。一人で変なことを考えていると、外の変化も妙に気になるものだ。
……僕はその間、ほとんど思いつく限りの場所を検討しつくし、自分にとっては国内にも国外にも行きたいと思えるような場所が、ただの一つも無くなっていたことに気付く。僕が知っている限りの日本の大きな都市はもちろん、聞き飽きたほど有名なニューヨークもエジプトも、行きたいとは思えなかった。
…………でも、ずっと居たい場所ならすぐに見つかった。考えるまでもないことだ。
僕に近い、近すぎる場所。
(ここ‥‥だよな)
伊勢は確かに田舎かも知れない。けれど都会のような喧噪さなんてまったく無くて、のんびりしていて暮らしやすい。僕にとっては生まれ故郷だから、友達は多いし。冬は暖かいし。南に行けば魚がうまいし、北に行けば肉がうまい。よく考えたら、けっこう良いところじゃないか。
それに何よりも、伊勢には里香がいる。
(……里香)
目の前でベッドに横たわっている少女の輪郭を、僕は見つめた。すでに部屋の中は夜の闇に染まり、窓ガラスは陽光ではなく、外灯の光で淡く輝いていた。里香の細く柔らかいシルエットが、その輝きに浮かび上がっている。そして、耳を澄ますと心地の良い音が入ってきた。
「…………すぅ…………すぅ……………」
里香の穏やかな寝息が、小さくとも確かに聞こえる。伊勢には、この子がいるんだ。僕の大好きで大好きでたまらない、里香がいるんだ。
僕は心の中が、とても優しくて暖かい想いに満たされていくのをじんわりと感じた。ほかに、僕にとって必要なものなんてあるか?
ないね。
まったくない。
………僕はそんな結論を下した後、眠っている里香を見つめた。
自然に、里香の身体の何処かに触れたくなった。そこで感じられるであろう温もりを、自分の手で確かめたいという気持ちが出てくる。
僕は唇にキスしたい気持ちを抑えて、ぎこちない手つきでそっと里香の頬を撫でてみた。病院にいて痩せていた時とは比べものにならないくらいに、柔らかい手触りだった。その愛おしい感触は、里香が元気であることを示しているようで頼もしかった。
僕はもう一回だけ気持ちよい手触りを確かめようとして、再び里香の頬を撫でようとすると……何の前触れもなく、閉じられた里香のまぶたがピクピクッと動いた。
(うわっ!!)
僕は驚いて手を引っ込め、更に少し身体を引いた。久しぶりに里香に驚かされてしまった。僕の心臓が馬鹿みたいに脈打っている。
その高鳴りが収まらないまま、僕は里香が徐々に目を開けていくのを見ていた―――

つづく

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次に期待

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